8月という季節

この季節はやっぱり戦争のことをいつもより考える。

この前知った、石垣りんさんの詩を。

 

弔詞  ー職場新聞に掲載された百五名の戦没者名簿に寄せて

 

ここに書かれたひとつの名前から、ひとりの人が立ち上がる。

 

ああ あなたでしたね。

あなたも死んだのでしたね。

 

活字にすれば四つか五つ。その向こうにあるひとつのいのち。

悲惨にとぢられたひとりの人生。

 

たとえば海老原寿美子さん。長身で陽気な若い女性。

一九四五年三月十日の大空襲に、母親と抱き合って、

ドブの中で死んでいた、私の仲間。

 

あなたはいま、

どのような眠りを、

眠っているのだろうか。

そして私はどのように、さめているというのか?

 

死者の記憶が遠ざかるとき、

同じ速度で、死は私たちに近づく。 

戦争が終わって二十年。もうここに並んだ死者たちのことを、

覚えている人も職場に少ない。

 

死者は静かに立ち上がる。

さみしい笑顔で、

この紙面から立ち去ろうとしている。忘却の方へ発とうとしている。

 

私は呼びかける。

西脇さん、

水町さん、

みんな、ここへ戻って下さい。

どのようにして戦争にまきこまれ、

どのようにして死なねばならなかったか。

語って

下さい。

 

戦争の記憶が遠ざかるとき、

戦争がまた

私たちに近づく。

そうでなければ良い。

 

八月十五日。

眠っているのは私たち。

苦しみにさめているのは

あなたたち。

行かないで下さい 皆さん、どうかここに居てください。

 

詩集『表札など』1968年 新潮社刊

 

結局、人間って何も学び遺せないのかなあ。

他の生き物だったら、自然淘汰によって、行動パターンの大きな変化は遺伝子レベルでゆっくり継承されていく。

進歩が群を抜いて速いことを加味しても、あまりに同じ愚行を繰り返しすぎじゃないか。

自国の人間すらそうなんだから、一生関わりそうもない外国の話になったらますます心が遠くなる。

 

現に、憎しみは毎日いたるところで増幅し

未だ生きている戦争体験者やヒバクシャの前で、被爆国の代表が、核廃絶へと向かう潮流に背をむける。

これは、日本人全員がある意味罪を犯している。

少なくとも、先の大戦で苦しみ抜いて死んでいった人たちを冒涜している。

 

日本人が、何を誇れるのか。

 

なんで、目の前のひとりは友だちになれるのに

国という形をとった瞬間に、憎み合う敵同士になってしまうんだろう。

 

結局、

滅びを早めているだけなのか。

もし神がいるのなら、もしかしたら火の鳥みたいに

こんな愚かな種は早く自滅すればいいと思っているのかもしれない。

道徳も、人種も、科学も、

全部 生み出したのはヒトのこころ。

己の生み出したものに自ら苦しんで、殺して、滅んでいく。

種としての悲哀が、余計に感じられるのはもう秋だから?

あまりに大きすぎて、でもそれでも

自分の日常の箱庭と切り離しちゃって、そんなことして、いいのかな。